悲しむ人々は幸いである − 現代人の優しさとは(2011 聖書の集い 7)

「福音書の聖書の言葉から」(1)

2011.1.12、第7回「現代社会に生きる聖書の言葉」湘南とつかYMCA

(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 マタイ5章4節


「悲しむ人々は幸いである」とイエスがいった、と聖書には書いてあります。一見「悲しむ人々」が不幸であるというなら分かりますが、「幸いだ」といわれると、ほんまかいな、と思います。だからこれは、逆説的表現です。逆説が分からない人にはこの言葉は意味を持ちません。私たちは日常で逆説をよく使っています。いろはカルタの中にも逆説が含まれています。「急がば回れ」「負けるが勝ち」などです。世の中の人が、安心だ、平安だ、安泰だ、といってその表面づらだけを見て喜んでいる時、その心の浅薄さに空しさを覚え、ほんとうの真実のないことを憂い悲しんでいる人には、深い幸いがあるのではないか、という意味に取れば、この文章を語ったイエスの心は伝わってきます。

 ドイツの宗教改革者(16世紀)マルティン・ルターは、ここの幸いを意味する「マカリオス」という原語を「グリュクリッヒ」(幸い)と訳さないで、「ゼーリッヒ」(救い)と訳しました。自分の幸福ばかりを考えているのではなく、他人の悲しい出来事に心を通わせる人には「救い」がある、という意味です。日本語の「優しい」という字は「人編」に「憂い」と書きます。人生や他人の憂いをしっかり心に宿しているひとには優しさが感じられます。

 このような逆説で聖書の真理は語られている面があることを読み取ることが大事です。聖書には沢山の「教え」「教義」「論理」もありますが、それらはどこかで逆説と対になっています。例えば、同じ「至福の教え」で語られている、「平和を作り出すものは幸いである」という言葉は、聖書の平和の論理としていつも引き合いにだされます。しかし、同じマタイの福音書には「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:33 )とあります。これは、親子の関係の文脈でいわれていることですが、親が子を支配し、一人一人の人格が認められないような家族関係は、むしろ一旦壊れてしかるべきだ、という趣旨でしょう。

 太宰治が『家庭の幸福』という短編を書いて、自分の家庭の幸福ばかりを考えている人の生き方が、知らない間に他人を損なっていて、人間の心に触れない生き方になっていることを逆説的に表現した文学です。「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉が出てきます。これは決して一般的な「論理」ではありません。ある面の人間の真理をいっているのです。

 聖書は、その時々に、有効な、大切な、教えや教義や論理を含んでいます。しかし、時を超えて、文脈を無視して、言葉が一人歩きをするような書物ではありません。

 歴史の書物であり、また文学なのです。聖書が「神の言葉」(キリスト教の「信仰告白」の表現)といわれるのは、歴史や文学を通して語られていることが、読み手に「他者性」(自分の中からだけでは出てこない人格的関係を呼び覚ます存在、自己相対化の視座としての「神」)を呼び覚ます時「神の言葉」として、生きたものになるのです。

 ここをやり過ごして、論理の中に観念的に取り込まれることが「信じることだ」といわれるならば、そこは注意しなければならないことです。

 歴史や文学であればこそ「逆説」を含むことが可能なのです。

 かつて、坪内逍遙はシェークスピアを訳したとき「I Love you」を「死んでもいいわ」と訳したという有名な話があります。心を訳しているのです。文学とはそういう面があります。

 文学者・太宰治は聖書をほんとうによく読んだといわれます。彼の最後の作品に『桜桃』があります。その冒頭の書き出しは聖書の言葉です。「われ、山に向いて目をあぐ」。詩編121編の書き出しです。しかし、それに続く「わが扶助はいずこよりきたるか」以下は引用していません。山に向いて目をあげるのは文学の世界です。次の扶助について思索するのは哲学の世界です。さらにそれに続く「わがたすけは、天地を作りたまへるヱホバよりきたる」は信仰の世界、神学の世界です。

 私たちは、ほんとうに「悲しんでいる」でしょうか。悲しい出来事がいっぱいあるのにそこに気が付いていないことがあります。(先日、日本キリスト教婦人矯風会は京都大学の岡真理さんを呼んで講演会をしました。パレスチナの問題です。ここでどんなに悲しいことが60年も続けられているか。日本のメディアは全くといってよいぐらい情報を伝えません。まだ、悲しいことはいっぱいあります)。

「悲しみの人にして、悩みをしれり」とは、イザヤ書53章の言葉でイエスを表現したものです。イエスを知るということは(それは神を知ることと同義です)、「悲しみをしること」であることに心を馳せたいと思います。

 それは、憂いを心に抱えることであり、優しさに生きることです。

次回:「必要なことはただ一つだけである − 主体性」ルカ 10:38-42

「現代社会に生きる聖書の言葉」第8回、「福音書のイエスの言葉から」(2)  

(続きます)