目が澄んでいれば《マタイ 6:22-23》(1999 頌栄短大)

1999年4月27日(火)
頌栄短期大学チャペル、
チャペル月報 1999年5月号 所収

(牧会41年、神戸教会牧師22年、健作さん65歳)

マタイ 6:22-23

 ”目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。”(マタイによる福音書 6:22-23、口語訳)


 この聖書の箇所に「目が澄んでいればあなたの全身が明るい(6:22)」という言葉があります。


 私はかねてより保育者の目の働きというものには、大事なことが3つあると思っています。

 ひとつは物事を客観的に見る目です。

 子どもの中に入ってしまわないで、じっとよく見るのが観察実習です。保育者は、いつも全体を把握していなくてはなりません。前を向いているのに、しかし、後ろの子どもの様子が全部把握できている目を持たなければ保育者の仕事はできません。絶えず全体の状況を見て行く目、それが3人称の目です。3人称というのは、私があって、そして私から見てそこに物事がある。そういう関係です。学校で保育学を学ぶということは3人称の目を養うことです。


 次に2人称の目というのがあります。

 2人称、私とあなたの関係です。二人が向かいあった時の関係です。子どもと向き合う目、高いところから見る目ではありません。見下ろす目でもありません。すれ違いの目でもありません。輝いた目、表情のある目、受容の目、語りかける目、友達の目、出会いの目。子どもの中に入った時にこういう目ができない保育者は保育者失格です。

 子どもは生まれた時から2人称の目を天性持っています。保育者になるということはこの2人称の目を子どもから学ぶことです。

 子どものお母さんを見る目は、すごくきれいな目をしています。愛する人を見る眼差(まなざ)しはきれいです。これは2人称の目です。

 岩崎ちひろさんが描いた絵、すぐれた絵ですが、お母さんがどんなに子どもの心に眼差(まなざ)しを向けているか、というそういう目を描いています。

 2人称の目は、母が子を愛する目、愛の目です。


 三番目にお話ししたいのは、1人称の目です。一人だけの目、沈黙の目、自分の内側に向かう目。

 人間は自分の孤独に耐えられなくて、自分を内省できないためにおしゃべりをします。そこをじっと耐えて内省の目が持てるかどうか。ここが大事です。これが1人称の目です。

 1人称の目は深い意味では祈りの目です。神様に向かう目です。聖書に書いてある「目が澄んでいる」というのはそういう意味です。

 自分の方から神様のことはわからないけれども神様の方から私のことを澄んだ目で見ていてくださる。

 ヤコブの手紙1章5節に次のようにあります。

 ”あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。”(ヤコブの手紙 1:5、新共同訳)

 ”あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。”(ヤコブの手紙 1:5、口語訳)


 ここに「惜しみなく」という言葉がありますが、これは「澄んでいる」という言葉と同じ言葉です。

 神の目が澄んでいるから惜しみなく私たちに目を向けて下さるという1人称の目は神に向かう目ですが、実はそれは神が私たちを見ていて下さるということの裏返しです。

 頌栄(短期大学)はこの1人称の目のことを学ぶ時間を保育の学びにプラスして持っている学校だと思います。

 1人称の目を学ぶということを大切にしていただきたいと思います。

 実は、私たちが気づいていなくても、この学び舎の一人ひとりを、神が澄んだ目で愛しておられることを信じています。

(頌栄短期大学チャペル月報 1999年5月号 岩井健作)


頌栄短期大学チャペルメッセージ(1986-2003)

error: Content is protected !!