(無題)

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第61回「新約聖書 イエスのたとえ話」④
ルカ福音書 16章1節-13節

 木下順二文、清水崑絵、『かにむかし』 (岩波書店)という絵本をご存じでしょうか。幼稚園や保育園では子どもがめっぽう好きで、読み聴かせをしていると、「読んで、読んで」と何回でもせがんで持ってくる本です。物語は日本昔ぱなしの「さるかに合戦」です。猿は強くて賢いという「通念、常識、固定観念」を見事破っているのです。その破り方に面白さがあります。確かに知恵と力の猿にやられて蟹は死にます。悲劇です。しかし、子ガニ、クリ、蜂、臼、はぜ棒、などの応援でもって、猿はやっつけられるのです。童話ながら、大衆の蜂起が感じられます。ルカ16章のイエスの譬話によって連想された私の経験です。

 さて、イエスの譬話「不正な管理人」でも、不正(横領罪)は悪だ、という通念があります。管理人は自分の不正を見破られて、困惑します。生きる道を考え、主人からの借金を書き替えて、小作人や商人を味方につけ、恩義を売り、不正手段をもって、新しい「友」を作ります。本来は処罰をもって臨む主人が(この譬では、物語の主人は何時の間にかイエス(主)その人になっています)こともあろうに、管理人のやり方を褒めたというのです。不正を褒めたわけではありません。これは不正は悪だという通念を破っています。

イエスは、弟子たちに次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百パトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十パトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

10 ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。

13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

新約聖書 ルカ福音書 16:1-13


 一体、この物語の主人は何を主張したいのでしょうか。

 最初の物語が語り伝えられて以来、この譬の意図は何かが探られてきました。イエスの死後、ルカ福音書の成立までには50-60年間ありますから、いろいろな解釈がありました。ルカもそれを並べています。

 8節は「賢さ」「機転」が強調されています。
 9節は「不正にまみれた富で友達をつくれ」です。いつの間にか、友達は永遠の住まいの象徴になっています。

 10節以下には、小事に忠実ものは、大事にも忠実であるという諺を持ってきました。小事は、この世の(不正な)富、大事は「ほんとうに価値あるもの」つまり「永遠の生命」を意味しています。
 13節は「富と神とに同時に仕えることはできない」という、別のイエスの言説(マタイ6:24)に結び付けて結論を伝えています。
いずれもこの譬の真意に迫ろうとした努力であったと思います。

田川建三は『イエスという男』(P.266-275)の中で、「小作人の借金を棒引きにせよ」との題を付けて、この話を、大地主と貧困にあえぐ小作という社会的文脈で読みます。ここの油百パトス(千デナリ)、小麦百コロス(二千五百デナリ)に注目します。小作の通常の取引の額ではない。長年の借金である。小作人にとって、こんな支配人がいたらなぁ、という願望があったであろう。イエスは周囲にいた農民にこんな話をして見事に勇気づけをしたに違いない。田川は「イエスが語った物語の中でも、最もラディカルな精神を示している」(同 P.275) と語っています。

 この話は基本的に「いのち」が問題になっています。それは「貧しいもののうちに友をつくる」こととして具体化されています。そうして、「不正」(多分そのような枠も伝承のなかで作られた)といわれるような通念、常識、固定観念を疑ってみないといけないのではないでしょうか。

 現代でも大きな不正は見逃されて、「いのち」の観点からみると、価値観がひっくりかえって見える地点があります。イエスはそこから語ったのです。 聖書を常識、キリスト教通念、固定観念から読むことはやめましょう。

 生き方が問われるところまで、掘り下げることが必要です。