わたしは預言者ではない – 「であること」よりも「すること」を(2013 アモス・聖書の集い)

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第56回「旧約聖書 アモスの言葉」④
アモス書 7章10節-17節

(牧会55年、単立明治学院教会牧師 8年目、健作さん79歳)

 教師、医師、牧師、看護師などは資格を取れば誰でもなれる。だがしかしそれがただちに人間を活かし支える仕事になるかといえばそうではない。「暴力」教師、「悪徳」医師、「世俗的」牧師、「サラリーマン」看護師などというものはどこにでもいるものだ。

 かつて「医師はいるが医者はいない。教師はいるが教育者はいない。牧師はいるが牧者はいない」と痛烈な批判を語ったのは福井達雨氏(止揚学園園長)だった。人間に関わる職務には献身が必要である。医師「である」という「資格」よりも、医師として病めるものに献身して治療「する」ことが大事なのである。こんな事が厳しく記されているのが旧約聖書のアモス書7章である。聖書を学び、読むからには、この箇所のことは是非覚えていてほしい。

 アモスは職業的預言者や祭司ではなかった。でも、イスラエルの国でヤロブアム王の時代、国のあまりにもひどい不正、不義、貧しい者への抑圧に抗して、「神の召命」によって叫びをあげた。国王ヤロブアムに対する「神の審判」の言葉があまりに厳しいものであったので、当時の職業的祭司アマツヤは、アモスの国外追放に立ち上がった。彼はアモスに二度とベテル(国家の聖所)で預言するな、「出て行け」と叫んだ。その時のアモスの答えが今日のテキス卜の14節である。

「わたしは預言者ではない。また預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培するものだ」。しかし、「主が…預言(神の言葉を伝える)せよ」と言われたので今語っているのだ、と言う。いわば素人が「預言を語っている」のである。預言者の「資格」が大事なのではない。「預言者ではない」ものが、なお「預言を語る」行動が大事なのである。神が「働き人を起こす」とは、資格のあること「である」事よりも、非人間的な現実に対してそれを改めるために行動「する」人を呼び起こすことである。

 例えば「〇〇大学」の学生の資格があることより、勉強や、研究を「すること」が大事なのである。「である」ことより「する」ことが大事だということを示唆する聖書の言葉が現代社会には必要ではないだろうか。今、日本では価値観の問題として、「脱原発か」「原子力による経済発展か」が問われている。言ってみれば「命」か「金」かの問題である。核問題の専門家も二手に別れる。冷や飯をくっても「核の非人間性」を訴える学者と、政府・財界・企業と結び付いて「御用学者」になっている人もいる。また、資格などないが、時代に警鐘を鳴らす「市民」がいる。「学者ではない」(あたかもアモス書の「預言者ではない」と同じように)と言いつつ、声を上げる名もなき「市民」は、今の時代の真の
預言者ではないだろうか。


10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。
11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて その土地から連れ去られる。』」
12 アマツヤはアモスに言った。
「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。
13 だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」
14 アモスは答えてアマツヤに言った。
「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
15 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。
16 今、主の言葉を聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。
17 それゆえ、主はこう言われる。お前の妻は町の中で遊女となり 息子、娘らは剣に倒れ 土地は測り縄で分けられ お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて その土地から連れ去られる。」

(アモス書 7章10節-17節、新共同訳)

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健作さんの「アモス」

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