愛は疾走する(2012 聖書の集い・コリント ④)

2012.9.26「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第43回「新約聖書 コリントの手紙とパウロ」④
第一コリント 13:4-13

(明治学院教会牧師、健作さん79歳)

1 .今回は、パウロの「コリントの信徒への手紙第一」 から、現代人にとって「言葉」として力を持つ箇所を、抜き取って読む読み方をしています。例えば前回学んだ、「弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:22)などです。

 健常者と障がい者とが共に生きる社会・ノーマライゼーシヨン(正常化)の論理としての迫力があり、共同体論として大きな力を持っています。パウロの手紙の歴史的文脈を知らなくともこの言葉を知ることで、聖書に近づくことができるでしょう。具体的な古代の歴史共同体であるコリントの教会で起こってる様々やっかいな問題の解決のなかで語った言葉です。

 パウロの思想の根本に迫るには「十字架の神学」というパウロ固有の「キリスト教理解」を知らねばなりませんが、それに基づいて「体(身体)と肢体(手、足)」という分かりやすい日常的な警えを使って、この教会の人々を導いているパウロの力量はたいしたものです。

 根本とは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われた者には神の力です。(1:18)」 、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(1:25) 」という、イエス理解にあります。

 イエスの十字架の死を通して、神が自らを示されているという逆説の論理があって、コリントの手紙にはこの基本が貫かれています。

2 .さて、今日の13章は、この手紙の中では、有名なところで、この章だけが「愛の章」などと言われて一人歩きして読まれるのも事実です。特に、終わりの部分13節は、それ自身が独立して、格言的に、名句として、用いられています。掛け軸の言葉には、最適です。漢訳の聖書の字句が簡潔で親しまれています。横書きですが、あげて置きます。「今也信望愛此三者皆存其中至大者愛也」。私のところにも、さる有名人の揮毫があります。

 13章の1節から4節までは「愛がなければ……やかましいシンバル」「愛がなければ……無に等しい」と、現実の言葉・預言・知識・信仰のそれ自身の完結性を相対化します。

「全財産を貧しい人々のために使いつくそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも愛がなければ、何の益のない」(3節)と記されています。当時こういう人がいたのです。「全財産を」なんて凄いと思いますが、それでも「愛」には至らないのです。厳しいなと思いますが、それでもここまでは分かりやすいのです。

3 .次です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。……」と始まります。これを愛の定義だと読む人が多いのです。けれども、パウロはそのような意味で語ったのでしょうか。

 そうではないと思います。コリント教会との関係で、随分忍耐強く説得もしてきました。だけれども、それが愛なのだろうか、と思う時、いや違う、とてもそんなものではない、自分の忍耐など、愛から程遠い。そこで「情け深い」と言ってみました。懐が大きくないと、いろいろな人が勝手なことをいって言える集団(教会)を受け入れることができません。パウロは、情け深い人でした。でも、いや違う。自慢せず、高ぶらない、礼を失せず。だんだんトーンが落ちています。自分の利益を求めず、とえらい卑近なことになってきました。トーンはさらに日常的になります。ええいもうやけっぱちです。いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ、なんていうのは、もう愛とは関係ありません。これはもっと客観的な社会の正義のことでしょう。

 そうして忍び、信じ、望み、耐えると、沈みこむように、人間関係のどん底から、あの神(十字架につけられたまひしままなるイエス・キリスト」ガラテヤ3:1) を、信じ、望むとき、信じ、望む事よりさらにその先に「十字架の逆説の出来事」があり、それを愛と表現せざるを得ないところに達します。

 愛はとても定義などできるものではありません。

 そこに至るまでの疾走そのものが愛なのです。「愛は疾走する」。これは私のコリント13章の読みです。こんな読みに気付かせてくれた哲学者のお名前だけは挙げておきます。今は亡き、飯島宗亨(むねたか)さんです。キルケゴールの研究家でした。

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