柏木義円を辺野古から読む(2018 沖縄) 

2018.5.15、掲載誌不明

(日本基督教団教師、健作さん85歳)

柏木義円

 1860生、越後三島郡与板西光寺住職柏木円楽・やうの長男。星野塾から新潟及び東京師範で学ぶ。群馬県細野西小学校長。「神仏基合同講演会」で安中教会員根岸小彌太、牧師海老名弾正を知り、受洗。学資が続かず一度中途退学した、同志社普通学校に再入学。新島襄に認められ、同志社予備校主任。淡路の人、平瀬かや子と結婚。同志社在職10年。安中教会牧師在職38年。

 矢内原忠雄は学生時代に柏木を訪れて「…奥様は病児の看護として千葉に在り、中学小学に在学中の令息たちは未だ帰られず、先生自ら五歳許りの病児を抱きてわれらを迎えられた、破れ畳に破れ障子、会堂の欄干には子供のおしめなどが一杯に干されてあった、しかも先生の額の光には限りなき霊の富がうかがわれる」と回顧している。(『孤憤のひと 柏木義円』片野真佐子 新教出版社 1993年)。

 笠原芳光は『同志社の思想家たち』で「“幸福な単独者”それが孤立を招き、運動が育ちにくい」と若干の疑問を語っている。しかし現在、「非戦の願いをつぐ安中・松井田の会」が柏木の志を継承している。

辺野古

 時代は異なるが国家権力と対峙した闘いに共通点がある。沖縄の苦悩は(1)琉球処分、(2)大平洋戦争下唯一の地上戦。(3)1972年「沖縄返還」後、国土0.8%に73.8%の米軍基地集中。(4)普天間基地(世界一危険)の辺野古移設。戦後米軍の土地収奪への農民の抵抗は、阿波根昌鴻の伊江島からの「ひとりからの乞食行進」闘争に始まり、島ぐるみ闘争へと広がった。

 翁長雄志が「普天間基地の辺野古移設反対」を訴えて、賛成派に10万票の差で知事選に勝利。沖縄の底力が示され、オール沖縄の誕生。安倍政権は金力でこれを倒そうとしている。翁長は50代で死の経験をした人。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬も有り」「人と人とが助け合う優しい社会の構築」を訴える(『戦う民意』角川書店 2015年)。翁長が、基地移設は自然環境の破壊であると訴えた「辺野古訴訟」は最高裁で敗訴。日本政府側が勝訴して以来、埋め立て工事は強行されている。一日300台くらいのダンプが土砂を搬入。搬入阻止をシュワブゲート前の座り込みで闘っている600人を越える3倍ぐらいの本土の(沖縄人警察は同郷のよしみがあり、不可)機動隊導入。辺野古の民衆の運動への「国家」の弾圧は続く。胸が痛む。名護市の市長選挙は、基地反対の稲嶺市長を落とすために、(反対派の情報)約7億円の政府側資金が賛成派候補側に渡ったと言われる。基地容認派の渡具知武豊氏が勝利すると70億円の助成を行った。露骨だ。

 2017年12月26日の朝日新聞「カネ受け取る決断  住民分断」と報じている。破格の日当につられて辺野古の「海人ウミンチュウ」が政府側の「警戒船」に雇われて、抗議のカヌー(4月25日にはカヌー83艇に乗り手が100名と報告されている)の監視の仕事についているという。「やっぱり人間カネがある方がいいからね」(新聞記事)。まさに「人間」、そして「沖縄」の破壊である。沖縄全体が「構造的差別」(新崎盛暉 琉球大学教授の言葉)の中で苦難を負っている。沖縄では金か命か、聖書で言えば、エリヤの物語のように「お金の神バアル」に仕えるか、「命の神ヤハウエ」に仕えるか、基本問題が露わに闘われている。

 雑誌『世界』3月号特集「辺野古新基地はつくれない」と北上田毅(土木技術者、沖縄市民連絡会)は、断層の問題や地盤の問題があり実際は作れないことを論じている。山城博治(沖縄平和運動センター議長)はオール沖縄に結集した沖縄の意志をくじくことは出来ない、と主張している。辺野古基金目標3.5億に対して6.5億円余。沖縄の問題と共に日本の問題(5/3 東京、不戦訴え約6万人集会)。聖書、Ⅱコリ4:8(失望しない)を私は信じる。また、世界の目が監視している。例えば、国際自然保護連盟は辺野古・大浦湾を視察して貴重な珊瑚が失われ残念だと、沖縄県に警告を出している(『琉球新報 2018/3/24』)。

 現実は負け戦のようであるが、決してそうではない。

 国家の権力に対する民衆の戦いである点は柏木も同じであるが、辺野古には広がりが在り、継承がある。かつて私も何度か辺野古に出かけた。日本基督教団の沖縄に関する委員をしていたので、沖縄の教会の訪問をするのが主たる目的だったが、辺野古での座り込みにも参加した。昨日のことのように思い起こす。辺野古の闘いのビデオ(DVD)の記録をとり続けている「森の映画社」藤本幸久・景山あさ子さんの『辺野古 圧殺の海』はその巻数を重ねる毎に、現在の辺野古の闘いの状況の臨場感を伝えてくれる。

恵みの強さ

 沖縄で、米軍基地に接収された土地への闘争に最初に取り組んだ阿波根昌鴻(しょうこう)の問題提起は今も辺野古で続いている。彼は伊江島から那覇に向かって一人で乞食行進をした。それに加わる人が次第に増え、大きな闘いの力になった。

 柏木は月報の発禁処分を何回も何回も受け続けても闘った。私は、柏木の強さは、聖書のパウロの言葉では「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント人への第二の手紙 12章9節)に表されていると思う。柏木は「強い人だ」といわれるが、それは人間的性格の強さではなく、神に支えられた恵みの強さだったと思う。

資料『柏木義円集』(未来社 1970)『非戦の思想』(伊谷隆一 、紀伊國屋 1967)

日本キリスト教婦人矯風会 関東部会講演 2018年5月15日 (「k-peace 」No.9, 2018年8月号所載)

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