主の慈しみ(2018 神戸教会・最後の説教)

2018年6月10日、神戸教会礼拝、日本基督教団正教師、健作さん 84歳

ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。

ルツ記 1章8節

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたには欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

マルコ福音書 10章21-22節

今日は懐かしい此の講壇にお招き戴き感謝致します。健康の不調で、講壇に立つことは出来ませんので、座ったままで失礼を致します。

「慈しみ深き友なるイエスは、罪 咎(とが)憂いを取り去りたもう」。

これは1954年版讃美歌の312番です。古くから日本の教会では親しまれて、歌い継がれてきました。讃美歌21では、493番に少し歌詞が変わって載っています。

私は神戸教会の牧師時代、母が危篤だ、と兄から報せがあり、急いで東京の病院に駆けつけました。ベッドの傍らに歩み寄ると、「健ちゃん、『慈しみ』を歌ってちょうだい」と言われました。母の最後の言葉でした。母のことですから、「慈しみ」の讃美歌を、人生の最後に歌ってもらうと、おそらく前々から決めていたのだと思います。母は「牧師」の連れ合いとして、父と一緒に何十年も牧会、伝道の歩みを続けてきました。その母のそれまでの歩みを思い、「慈しみ深き」と、傍らにいる者が、共に涙して歌いました。母との最後の別れでした。

「慈しみ」と言う言葉は、旧約聖書では「へセッド」という言葉の訳語として用いられています。この言葉は、「慈しみ」の他「愛、真実、恵み、憐み」などいろいろに訳されています。神の、私たちへの関わりの豊かさを示しています。神が、真実に私たちを、愛して下さっていることを示す、聖書の大事な、基本用語です。

この「慈しみ」は『聖書の風景』という私の本でも取り上げました。

旧約聖書のルツ記の、ナオミの祈りについて、語ったところです。

物語は、夫エリメレクが死に、二人の息子も死に、妻ナオミと二人の嫁だけが残されます。妻ナオミは、未だ若い二人の嫁の将来を思い、再婚を勧めます。そして祈りを捧げます。「主が、あなた方に慈しみを賜りますように」(1:8)と。

この「主の慈しみ」を祈るということは、その人への深い愛を示しています。ルツ記には「通奏低音」のように、この「慈しみ」の思いが流れています。

「慈しみ」という言葉は、旧約聖書では百回以上も出てきます。

特に詩編に多く見いだされます。交読文でも用いられています。よく知られているのは、詩編の23編です。「主はわたしの牧者であって…」で始まる詩編です。その6節には「わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と、歌われています。慈しみは「主が共にいて下さる」、「主の恵みに与っている」ことの象徴なのです。

新約聖書ではマルコによる福音書の10章21節に出てきます。新共同訳では「金持ちの男」という表題が着いている箇所です。口語訳では「富める青年」となっています。この青年は、イエスに「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と尋ねます。

富を持っていて、そこから自由になることが出来ない人です。「富」も「永遠の命も」両方とも欲しいと言う、虫のいい、欲張りな青年です。この、神から遠いと思われる青年にも、「あなたには足りないことが一つある」と厳しい言葉をかけられますが、イエスはそれを「慈しんで」言ったとなっています。此所は見逃せないところです。

私の父親は同志社の法学部を卒業して銀行に就職した、銀行員でした。ところが賀川豊彦の伝道集会に参加して、賀川の話にいたく感動して、大手の銀行員だったのを辞めて、世間の出世コースを、惜しみなく離れて、伝道者になった人間です。もう子供もいるというのに、行き先の事も考えずに、賀川について行く人生の転換は、母をさぞ驚かせ、また苦労をさせたと思います。

母は、ただ信仰がしっかりしている人を、自分の結婚相手に選びたいというだけで、自分の叔父の世話を信じて結婚した人ですが、銀行員から一介の伝道者、しかも開拓、自給 農村伝道者に父がなったので、予期しない、道を歩んで、父と苦楽を共にしました。

父は、伝道するには、やはり神学校で学ばないと駄目だと自分で考えて、京都にもどって、再入学した時は、母は宣教師の家でメイド(お手伝いさん)をして、生活を支えたと聞かされました。父が牧師の正式の資格が取れたのは、子供を3人抱えた時だったと言います。世間一般ではもう中堅の働きどころの時代です。それから東京での開拓伝道にたずさわりました。私が小学校に上がる前の経験ですが、米びつの底に、米がなくなって思案している母の姿を見ました。傍らにいた子供の私が、「お米屋さんに行って買ってきたらいいのに」と言ったら、「お家にお金あったらね」と言っていた母の姿が、この歳になっても思い起こされます。その晩は何を食べたか覚えていませんが、戦時中でもあったのですが、さつまいもの蒸したのを一と切れずつ、みんなで分けて食べた食事の記憶があります。

『敬虔なるリベラリスト – 岩井文男の思想と生涯』という本があります。新島学園の研究所が纏めて下さった、父の伝記です。それを見ると「『僕かあ-、賀川さんに騙されちゃってね』というのが筆者(高道基さん)が聞いた最後のジョークであった」と語られています。「そこには一片の志を貫いたもののもつ自尊の心が溢れていた」とあります。

晩年は同志社大学神学部の教授を務め、最後は、群馬で、新島学園の校長を20年続け、新島短大を設立する仕事まで、させて戴きました。感謝の人生です。

人生の最後に、ベッドの傍らにいた私に「健作、僕の生涯は恵みであった。お前も神戸教会をしっかりやれ。」と語って天に召されました。「神の慈しみの内にある人生」でした。父の最後の言葉は「神への賛美、自分の信仰告白、そしてその継承を願っての祈り、そして遺言であった」と私は思っています。この言葉を秘めて、私は神戸の牧会を励みました。

神戸教会

その神戸教会も24年間努めさせて戴き、もう隠退と思っていたのですが、不思議な導きで、晩年、関東で、川和教会、明治学院教会の二つの教会で牧師として10年余りお務めをさせて戴きました。

私ももう人生最晩年ですが、私の歩みを友人の大倉一郎さんが「岩井健作の宣教思想と霊性 − 教会と平和運動の形成」という論文で纏めてくれました。明治学院大紀要48号です。

これはインターネットのグーグルで「大倉一郎」で検索できます。客観化された、岩井健作を読んでみて、自分の人生の歩みが、ほんとうに「主の慈しみ」の中にあると、しみじみ思い、感謝がこみ上げてきます。

かつては、私も、「主の慈しみ」に委ねるという生き方ではなくて、「富める青年」(口語訳)「金持ちの男」(新共同訳)のように、何か自分の持てるものを頼りに生きてきたような時代がありました。自分では気がついていないのですが、丁度「富める青年」(口語訳)のように、知らないうちに自分が持ってしまっている「自負」のようなものが、外の人から見ると、よほど気になったのだと思います。

私が、未だ30代の頃、山口県の岩国の教会で牧会をしていたときのことです。

ある、年配のご婦人から「岩井先生は駄目な牧師だ、伝道が下手だ」とまともに言われてしまいました。

自分では、自分に与えられた、賜物を生かして精一杯、頑張っていたものですから、少しがっくりきました。「どういうところが駄目なのですか」と聞いてみました。すると、答えは意外でした。何代目ものクリスチャンであること、二代目の牧師であること、クリスチャンの同じような奥さんと一緒になっていること、等と指摘されました。ちょっと戸惑いました。

私には、それらはむしろ賜物であり、恵みだと思える事柄でした。しかし、その夫人から見ると、日本の封建遺制が残る、ほとんど近代以前の社会の現実に理解が及ばないといわれるのです。「農村社会の人間関係のしがらみが本当にはお分かりにはならない」ということでした。言い換えれば「個に目覚めた、近代人だから、伝道が下手だ」ということを言われていたのです。実は、これは言われても仕方がないことなのですが、敢えて言われたところに心しました。

その方のキリスト教に入った経緯をお聴きすると、確かに私などには理解の及ばないことでした。田舎のしきたりの強い封建的な、家庭の中で、外国の宗教のキリスト教の教会に行くことなどはとうてい出来ない環境でした。結核になって、すでに青年時代に亡くなったクリスチャンの叔父の生き方を密かに慕っておられました。家社会や、村落共同体の封建的な人間関係のしがらみを断ち切って、更にその中を生きると言うことが、その方にとっての「十字架と復活」でした。一度は死んで、クリスチャンになった、その叔父の生き方に惹かれておられました。隠れて教会に通うことで、本当の自分というものを失わないようにしたと言われました。家族に内緒で女学生の時、教会に行くことは大変なことだったと言われました。親にはこれこれの習い事をするといって、嘘をついて、教会に行ったそうです。聖書や讃美歌はいろいろ工夫をして隠したが、見つかって父親に焼き捨てられてしまった。教会に行ったことが分かってからは、日曜日に監視付きで出られなかったといいます。学校の帰りに教会によって牧師に祈ってもらった。そんなエピソードを話して下さいました。

その方から見ると、家の束縛がなくて、個人が自由に教会に行くことが出来るような社会が当然なことと考えている牧師には、田舎伝道、田舎牧師、は出来ないと思われたのだと思います。このことは私には、大きなショック、でした。

日本が、開国した明治以後、「近代化」したことは自明なことでした。夏目漱石を、芥川龍之介、そして戦後は太宰治を読んで育ってきたのが当然のことでした。だが、そのことを「一つの欠け」として、自覚すべきことを悟らされました。ところが、近代都市神戸では事情が全く違っていました。近代的自己は自明なことで、それを社会的自己、つまり、賀川豊彦が身をもって実践したように、社会をどのように変えて行くかを自分の課題として行くことが求められているのです。賀川の葺合(ふきあい)新川での問題提起は強烈でした。都市社会で、貧民窟に住まわざるを得ない人々を隣人として生きたのです。賀川が、神戸教会の塔を「バベルの塔」と言ったという逸話を前に聞いたことがあります。彼から見ると、近代化の上澄みを生きている神戸教会始め、中産階級の教会がそのように見えたのだと思います。

イエスが富める青年に「あなたに欠けているものが一つある」と言われているのは、その時々、状況によって、変わって来ます。「富める青年」は、救いに必要な律法の遵守は当然なこととしてやってきました。しかし、それだけで満足している青年に、イエスはそれを彼の「欠け」として指摘しました。

自分にとって所与のもの、「持っているもの」「当然なこと」そこにあぐらをかいてはいけない、居座ってはいけない、ということです。日本のキリスト教全般にとって言えば、近代社会の中に市民権を獲得しているキリスト教に盾こもってはいけない。更にその先に課題はあるということでしょうか。

私も「持っているもの」、自分の人生にとって当然なことが、壁にぶつかってしまったことは貴重な経験でした。当然であることに、改めて、死ぬことは大変なことです。「十字架」とはそういうことなのだ、ということも悟りました。

イエスの「足りないところ」(口語)「あなたに欠けているものが一つある」(新共同訳)という言葉は私にはそのような意味だったのです。

当たり前だと思っていても、そのことがなお「汝一つを欠く」という事になるのです。

私たちは、それぞれに自分では、当然だと思っていることの、積み重ねの中に生きています。しかし、そこに「欠け」が潜んでいます。

イエスは、ルカ福音書では「汝、なお一つを欠く」「欠けていることが、まだ一つある」(ルカ)といって、「なお」を強調しています。富める青年(金持ちの男)を戒めたように、この歳になっても、自分の欠けというものへの自覚は大切だと思っています。その意味では、自分は、あの「富める青年」とは違うのだと思ってしまってはいけないということです。

しかし、同時にイエスがその青年に「慈しんで」言われたところに「救い」を覚えます。主の慈しみは、誰ひとり漏れることなく、それぞれに注がれています。その慈しみの証しに今日は講壇に立たせて戴きました。

「八十路越え 講壇に立つ 主の慈しみ」

「主の慈しみ みな共に いざ目覚めん」

「慈しみ深き友なるイエスは、かわらぬ愛もて導きたもう」讃美歌312  3節。

「変わらぬ愛」「主の慈しみ」を信じてそれぞれの人生を歩んでまいりましょう。

祈ります。

父なる御神、今日は、神戸教会の講壇にお招き戴いた事を深く感謝致します。誰ひとり漏れることのない主の慈しみに、皆与っています。ひとりひとりを目覚めさせて下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

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